木のおもちゃづくりに思う

三和総合設計

2005年07月04日 16:47

今日は、今まで書いてきたことの総決算のような話です。
木のおもちゃづくりが何で総決算なんやと思われる方もおられるでしょうが、まあ読んでください。
桧の積み木を作っていた時にふと思いました。桧の節の部分を捨ててきれいなところだけを選んで作っているのです。普段から、「節なんかあってもええやんか」といっている割には、そんな風にしているんやなと自分で思いました。
結局、いろいろ考えて答えは次のようです。
桧のおもちゃを買ってくれる人のことを考えると節のないきれいな部分で積み木を作るのは間違っていないと思います。節のない部分はきれいなだけでなく、素直なのです。素直だから逆目もなくきれいに仕上がり、木目の関係でかけたりもしません。だから、目的を考えるとそれでいいのです。
ようは、節の働きを忘れないことです。節は、木が生長するために大きく枝をはり、葉っぱから成長に必要な養分を手に入れているのです。そういう重要な働きをした証なのです。ですから、節はじゃまっけなものと考えずに、今までの働きに感謝をしながら、燃料になっていただきます。なんだ、燃料かいなと思われるでしょうが、きれいな積み木も最後は燃料です(意識的に燃やさなくても、朽ちてCO2を発生させ、地球温暖化の一因となるのです)。木にもそれぞれ役割があって、きれいな木肌をつくり、それを利用する人々の心をなごますのが木の持っている癒しの力ですが、それを支えているのが、節をはじめとする、枝葉なのです。
このように考えると、人間社会も同じですね。
できるだけ、人々が心地よく生活できるようにさまざまな工夫がなされます。そういった、最終的な職業のみが脚光を浴びますが、木で言うところの節にあたる「職人の力」が忘れ去られています。
「職人の力」無しでは築くことができない社会であることに気がつかずに、職人さんたちの日々の努力に対して敬意を払うことを忘れてしまいます。
社会全体が、職人の力無しで生きていけるように錯覚したり、それを無しで生きていける社会が良いのでと思ってしまっています。
日本経済も化けの皮がはがれ、本当の豊かさを手に入れていないことに気がつき始めていますが、多くの人々はまだ、目覚めてはいません。質より量を選び、速さを競い合っても、人間も最終的には行くところは同じです。
もっと素直に、もっと楽しく生きてみたいと思いませんか。今、求めているものは本物でしょうか。
木のおもちゃをつくりながら、たいそうなことを考えました。