昨日、私たちが滋賀県で開催している木考塾(木造在来工法住宅を考える会)で「大工棟梁の技と古典建築学」という学習会を開催しました。
講師は、名古屋工業大学の大学院教授で麓和善先生です。
実は、彼は私の大学時代の同級生で、大学に残り建築歴史学を研究しています。
その麓先生が、神戸にある竹中道具館で講演を行なうことを知り、同級生のよしみで、同じ内容を滋賀でもお話していただくことにしたものです。
室町時代から、建造物を建てるには図面と言うものが作られるようになったそうです。
そういった中で、大工は5つの技能を持たなければならない(五意達者)という教えがあったそうです。
式尺ノ墨曲(木割・設計)、参合(積算)、手仕事、絵様(彫り物の下絵)、彫物の5つだそうです。
設計、積算、工事だけではなく、彫物のための絵心を持ち、それを自分で彫ることが出来なければならないと言うものです。
技術者として、自分が責任を持って仕事をやり通すというものですね。
古い時代から、積算と言う考え方もあったようです。
日本の算数(和算)は建築とともに始まったそうです。
それが一方は和算に、一方は建築学に進み、古典書では和算と建築が融合したような表現も残っているのをスライドで見せていただきました。
昔の大工技術や大工さんの話を聞くと最近の住宅建築の世界が情けなくなりますね。
住宅メーカーは大工さんや職人に出来るだけ簡単で技術の必要の無い仕事を求め、手間代を安くしようとします。
その結果、文化とは程遠い住まいが大量に作られています。
日ごろあまり経験のない古典からの話を聞いたのですが、いかに今の社会がお金偏重になっているかを実感しました。
伝統構法って何だろうという議論が木の家ネットの役員の中で広がっています。
昨日の講演を聞いて思いつきました。
住宅の耐震性が問題になり、法律でいろいろ規制されることになりました。
そういった中で、昔から作られている伝統構法が置き去りにされている。そのため、伝統構法は地震に強いかどうかということが最優先して議論されているように思いますが、大切なことは別にあるように思いました。
住まいはその時代を反映して造られています。
ですから、今の時代のようにお金偏重の時代であれば、それを最優先した建物がどんどん作られます。
それが、何百年も経てば、一つの歴史としてそういう時代もあったということになるのでしょう。
何百年も経てば、それがその時代を示す歴史的な建物ということになるのでしょう(それまで残るとは思えませんが)。
ただ歴史的な建物だからといって、それが良いものだとは限りません。
住まいを安く作るために合理化されたためだけの建造物ということになるのでしょう。
もう一度話を戻しますが、今、伝統的な建物として残っているもの、これからも残していこうとされている伝統構法の建物は何が違うのでしょう。
それは美しさを持っているということではないかと思いました。
住宅や建築物に限らず、少し前までの物は必ずといってよいほど美しさを備えていたように思います。
それが、今、伝統文化として残っているのだと思います。
それが忘れ去られているのが、今の住宅であり、他の商品でもあるのだと思います。
もちろん美しさがまったく無視されているわけではないのですが、美しさは物を売りやすくするための手段、ですから、それは永遠のものでなくても良い。買った人が後から考えると恥ずかしくなるようなものであってもかまわない。
そういった、人を一時的にひきつけるためだけのものが多いように思います。
周囲のことを考えないデザイン、こういったものが文化とは考えられないでしょう。
伝統構法が強いかどうか。これは強いものもあれば弱いものもあると言うのが正解ではないでしょうか。
地震に見舞われるのは非常に長いスパンです。
ですから、なかなか地震に対する備えを建物に反映させていくのは難しいのでしょう。
太い木柄の構造体が、毎日の生活の必要性や経済性の中で細くなったり、壁を少なくしたりする中で弱くなったりすることもあるでしょう。
だからと言って日本の古来からある建築文化、日本の風景と言うものを捨て去っても良いと言うものではないと思います。
古典建築からもう一度住まいを見直したとき、地震に強いのかどうかを最優先して議論を進めることに問題を感じました。
もちろん地震に弱くてよいと言うことではありません。
まず、住まいはどうあるべきかという視点に立ち、その上で地震に強くするためにはどうしたらよいのだろうというのが順序のような気がしました。