義父のシベリア

三和総合設計

2012年08月16日 13:53

今日でお盆の行事も終わり。
塔婆を持ってお墓参り。
ちょっと早い時間ですが、ご先祖様をお墓までお見送りしてきました。

お墓参りに出た足で、大津歴史博物館で展示されている「シベリア抑留の記録」を見に行ってきました。
ずっと前に新聞記事で見つけて、義父を連れていってあげたら喜ぶかなーと思いつつ、なかなか時間がとれないので言い出せなかったのです。
でもまたつい先日、記事に取り上げられ、19日までと書かれていて、お盆も開館している様子。
それならと義父に今日声をかけたら、「行く!」とのこと。

シベリアから満州に抑留され、中国からやっと帰国できたのは、昭和28年。
従軍看護婦で満州にいた義母と義兄と3人で帰ってきたそうです。
シベリアから脱走したとか、偽名を使っていたとか、病気で死にかけていたけど何故か助かったとか、いろいろな話を断片的には聞いていたのですが・・・
どこまでが本当の話で、どんな風に話がつながっているのか、さっぱり。
90歳になった今となっては、聞いても余計に話がややこしくなるばかり。

展示は思っていたよりとても少なくてちょっと残念だったのですが、なんとなく仲間に出会えた気分になったのか、嬉しそうな義父でした。
昔の地図を見ながら、ここにいたんやーとか話していると、展示を食い入るように見られていた女性が、「シベリアにおられたんですか?」と話しかけてこられました。

熊本から見に来られたというその女性のおじいさまもシベリアで捕虜となり、命からがら帰ってこられたようなのです。
でも、シベリアでの出来事は一切話さずにずいぶん前に亡くなられたそうです。
その女性が中学生の頃に勉強で戦争の話を聞かせてとおじいさまにお願いしたら、楽しかったという話しばかりだったそうです。でもその話す間、ずっとおじいさまの手は震えていたそうです。
子供ながらに相当なつらい思いをしてきたんだなと察したとお話されていました。

シベリアで捕虜となった方々の多くは、当時のことをあまり語らない方が多いようですね。
そんな悲惨な経験をされた方々も既にお亡くなりになっている方も多いので、なかなか真実はわかりにくい。

幸い、義父は90になっても自分の足で歩いて、ひとつひとつの展示をじっくり見ることもできています。
行き帰りの車の中で、どんな風だったかあれこれ聞いてみましたが、やっぱりいまひとつつじつまが合わない。。。
それでも新たにわかったことがいくつか出てきました。

シベリアで捕虜になって、命からがら脱走してきた。と思っていたのは間違いでした。

満州とシベリアの境界沿いのシベリア側で捕虜になったようですが、病気になり満州に送り返された。
満州に戻されたらいつの間にか病気はなおり、中国の炭鉱へ労働者として送られた。
炭鉱で働くことは地獄へやられるのと同じと思い、3,4人で脱走した。
でもすぐ見つかって連れ戻された・・・。

えっ、そうやったん!?
シベリア脱走なんて、映画みたいなすごい大それたことをやらはったんやとばっかり思っていたのに。
ちょっと拍子抜けして主人と苦笑。
(笑い事ではないのですが・・・・)
今まで聞いていたこととかなり違っていました。

でも今までに聞いている病院で死に掛けていたこと、義母との出会い、偽名を使っていた理由などとの関係がもうひとつわからない。。。時系列もあいまいで。。。
なにが本当か・・・やっぱりわからない。

90となった今となっては、普段の生活も物忘れのオンパレードでまともに進まない状況なので、真実を聞き出すのはちょっと難しそうです。

とにかく、かなりの苦労をしたのは確か。
歴史博物館で出会った女性に「ほんまによー生きて帰ってこれたなぁとつくづく心底思いますわ」と言っていた義父。

戦争が思い出のひとつなんて、本当につらいものですよね。
戦争を知らずに生きている自分は、本当にしあわせなのだと思います。

戦争は絶対にしてはならない。
真実はこれしかないと心から思います。

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三和総合設計は、Forward to 1985運動に賛同しています。


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