2010年08月04日
社会からかけ離れていく大工技術
少し前、京都で有名な大工さんのお話を聞く機会がありました。
一般の人でもご存知の西岡棟梁ほどではありませんが、業界では有名な方です。
でも、その方の話を聞いてがっかりしました。
伝統構法は坪単価200万でもちゃんとした家はできないとか、明治以後の大工の作ったものは皆ダメとか。
逆に自分の造った建物はすばらしい。
大工でなければわからないことを駆使して造っていますなどの話がありました。
でも京都の町家は坪200万もかけて造られているものではないし、明治以降の名もない大工さんが丁寧にコツコツ作ったものです。
また、その大工さんが大工でないとわからないと豪語していた地盤の話は今では地盤の良いところに家は造らなければならないことは一般の人でも常識ですし、地質調査などでもかなり詳細なことがわかるようになっています。
挙句の果ては、建物の基礎にコンクリートを使うのはもってのほかという話があったすぐ後に、自分が建てた建物の下にコンクリートを打って補強したという話が出る始末。
その件に対して質問があってもしどろもどろ。
申し訳あいませんが、話を聞いているとタダのほら吹きか、自分の自慢話をしたいのかどちらかだという感じがしました。
でも多くの人がお話を聞きに来ているので、話を聞いている人は皆、その棟梁のことをすごく信頼しているのだろうなと思っていましたが、実はそうでもなかったようです。
私がいくつか質問をしたこともあってか、帰り際に同じく話を聞いていた大工さんであろう人が、「あんな人の話をまともに聞いちゃだめ」などといって来たりしたので、みなさんその棟梁を盲目的に信じているのではないのだと思いました。
でも、その棟梁は業界紙でインタビューを受け、何ページも紙面を割いて特集されていたりします。
こんなことを見ていると、本来国民のためである大工技術はどうなってしまうのだろうと思ったりします。
ご存知の方も多いと思いますが、最近では在来工法の建物でも、大工さんが墨付けしたり、手で刻んだりするのではなく、工場でプレカットされたりしています。
こんなことを続けていると、建物の修繕などができなくなってしまいます。
逆に若い大工さんが、俺は大工になりたいと伝統的な仕事をやっている工務店を訪ねることも出てきています。
それはうれしいことなのですが、大工になりたいというのが、自分の欲求を満たしたいというのが一番ということが多いのです。
もちろん自分のしたい仕事をするのが問題だということではないのですが、その仕事は誰のものなのか。
住む人のために家を作るのですが、自分の技術をただ磨きたいだけ。
そんな若者も多いように思います。
だから、そんな若者は工務店に勤めても、この工務店は伝統的な仕事が多くできない。
もっと違うところへ変わりたいと腰が落ち着きません。
何事も光になる部分もありますが、影もある。
まして日本の住まいをどうするのかと考えた時に、大工さんが名工ばかりを目指していてはどうにもなりません。
このような状態が続くと、日本の住まいは工場でつくられ、耐久性が少なく、修繕がしにくい住まいか、それともお金持ちが道楽で造る伝統構法の住まいなどに分かれてしまうような気がします。
職人さんは多くを語らず、住まい手にとって良いことを黙々とこなしていくというイメージではいけないのかもしれませんが、光の当たる部分だけを求めて若者が集まっても、日本の住文化は守れることはないだろうと思ったりします。
マスコミにも考えていただきたいと思います。
有名で大口をたたく職人さんより、黙って良い仕事をコツコツとこなす職人さんを大事にして欲しいと思います。
坪単価200万以上出して造れる住まいがどれだけあるでしょう。
伝統構法がそういうものであるとしたら、日本の社会から伝統構法の建物は消え去ってしまいます。
また、そういう大工さんがちやほやされるものですから、若者もそんな大工さんを目指してしまう。
もちろん芸術に近い仕事を目指したらいけないということではないのですが、それは大工の仕事の本流ではないと思って欲しいと私は思います。
自分の欲求を満たすために大工になるのか、それとも住まい手のために仕事ができる職人を目指すのか。
これは建築の設計の世界でも同じようなことがいえるのですが。。。
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一般の人でもご存知の西岡棟梁ほどではありませんが、業界では有名な方です。
でも、その方の話を聞いてがっかりしました。
伝統構法は坪単価200万でもちゃんとした家はできないとか、明治以後の大工の作ったものは皆ダメとか。
逆に自分の造った建物はすばらしい。
大工でなければわからないことを駆使して造っていますなどの話がありました。
でも京都の町家は坪200万もかけて造られているものではないし、明治以降の名もない大工さんが丁寧にコツコツ作ったものです。
また、その大工さんが大工でないとわからないと豪語していた地盤の話は今では地盤の良いところに家は造らなければならないことは一般の人でも常識ですし、地質調査などでもかなり詳細なことがわかるようになっています。
挙句の果ては、建物の基礎にコンクリートを使うのはもってのほかという話があったすぐ後に、自分が建てた建物の下にコンクリートを打って補強したという話が出る始末。
その件に対して質問があってもしどろもどろ。
申し訳あいませんが、話を聞いているとタダのほら吹きか、自分の自慢話をしたいのかどちらかだという感じがしました。
でも多くの人がお話を聞きに来ているので、話を聞いている人は皆、その棟梁のことをすごく信頼しているのだろうなと思っていましたが、実はそうでもなかったようです。
私がいくつか質問をしたこともあってか、帰り際に同じく話を聞いていた大工さんであろう人が、「あんな人の話をまともに聞いちゃだめ」などといって来たりしたので、みなさんその棟梁を盲目的に信じているのではないのだと思いました。
でも、その棟梁は業界紙でインタビューを受け、何ページも紙面を割いて特集されていたりします。
こんなことを見ていると、本来国民のためである大工技術はどうなってしまうのだろうと思ったりします。
ご存知の方も多いと思いますが、最近では在来工法の建物でも、大工さんが墨付けしたり、手で刻んだりするのではなく、工場でプレカットされたりしています。
こんなことを続けていると、建物の修繕などができなくなってしまいます。
逆に若い大工さんが、俺は大工になりたいと伝統的な仕事をやっている工務店を訪ねることも出てきています。
それはうれしいことなのですが、大工になりたいというのが、自分の欲求を満たしたいというのが一番ということが多いのです。
もちろん自分のしたい仕事をするのが問題だということではないのですが、その仕事は誰のものなのか。
住む人のために家を作るのですが、自分の技術をただ磨きたいだけ。
そんな若者も多いように思います。
だから、そんな若者は工務店に勤めても、この工務店は伝統的な仕事が多くできない。
もっと違うところへ変わりたいと腰が落ち着きません。
何事も光になる部分もありますが、影もある。
まして日本の住まいをどうするのかと考えた時に、大工さんが名工ばかりを目指していてはどうにもなりません。
このような状態が続くと、日本の住まいは工場でつくられ、耐久性が少なく、修繕がしにくい住まいか、それともお金持ちが道楽で造る伝統構法の住まいなどに分かれてしまうような気がします。
職人さんは多くを語らず、住まい手にとって良いことを黙々とこなしていくというイメージではいけないのかもしれませんが、光の当たる部分だけを求めて若者が集まっても、日本の住文化は守れることはないだろうと思ったりします。
マスコミにも考えていただきたいと思います。
有名で大口をたたく職人さんより、黙って良い仕事をコツコツとこなす職人さんを大事にして欲しいと思います。
坪単価200万以上出して造れる住まいがどれだけあるでしょう。
伝統構法がそういうものであるとしたら、日本の社会から伝統構法の建物は消え去ってしまいます。
また、そういう大工さんがちやほやされるものですから、若者もそんな大工さんを目指してしまう。
もちろん芸術に近い仕事を目指したらいけないということではないのですが、それは大工の仕事の本流ではないと思って欲しいと私は思います。
自分の欲求を満たすために大工になるのか、それとも住まい手のために仕事ができる職人を目指すのか。
これは建築の設計の世界でも同じようなことがいえるのですが。。。
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Posted by 三和総合設計 at 07:25│Comments(0)
│変だぞ!今の住まいづくり(正)