2010年08月16日
自分のためなのか、社会のためなのか
昨日は少しゆっくりできたので、夜、テレビ番組をたくさん見ました。
いつもテレビを見ると「?」と思うことがいっぱいです。
一つは日本の教育の問題。
日本の教育が良くないから、アメリカのハーバード大学にいこう。
そのための塾ができたというものでした。
確かに日本の大学は良くない。
日本の最高学府といわれている東京大学でも、卒業したら官僚になって、社会のために働かず、自分の保身のために努力をする。
大学で学ぶということはそんなためではないですね。
社会に出て働くということは、自分が利益を得るためではないのです。
もちろんお金がなければ生活していけませんが、人を押しのけて金儲けし、それで生きていけば良いというのではないのです。
社会というのは共同生活の場。
人のできないことを変わりにし、その対価を頂き生活するというのが正しい道だと思うのです。
でも今では人に勝たなければ自分が生きていけない。
そのために少しでも優秀な大学に進む。
その大学に進むことを商売にする。
とってもおかしな社会です。
日本の大学が良くないから、ハーバード大学に進むのではなく、日本の大学をもう少し改革することを考える必要があります。
そのためには、大学を改革するだけでなく、社会を改革しなければダメですね。
優秀な人間を作り、それを金儲けに使うという仕組みではなく、学問で得た知識を社会のために使い、人はその対価をいただくということを真剣に考えなければなりません。
そうしないと、日本の世の中は一部の金持ちと、多くの貧困者に分かれてしまい、さらに金持ちもいつまでも金持ちでいれない社会になるでしょう。
もう一つ教育の話がありました。
より良い教育を目指すために、中学、高校と全寮制で生活する。そんな学校の話がありました。
そこでその寮の寮長もしている先生が、「6年間一緒に生活していると卒業する時は分かれるのがつらい」と話していました。
その通りだと思いますが、その前に中学、高校と子どもとして本来関わっていかなければならない両親はどう考えているのでしょう。
小学校を出てすぐ全寮制の学校へ入れないとまともな子どもができないのか。
それともそんな学校に入れることが、子どもの幸せだと思っているのでしょうか。
今の社会なら、普通のことをしないで、子供らしく生活ささないで、小さいうちにいろいろ詰め込めば確かにその子はうまく生きていくかもしれません。
でもそれが正しい姿でしょうか。
ハーバード大学に進学して優秀な学問を学ぶことは確かに大切なことでしょう。
でも、普通に生活している人が生活しにくい社会を何とかできなくて意味があるでしょうか。
他にも日本にある中国系の学校に進学させる話もありましたがここではカットします。
もう一点。
東京渋谷の「均一価格の飲み屋」の話。
一生懸命努力して、安い価格でお客さんに食べ物を提供し、他店に勝ち抜く。
相手が280円均一なら、こちらは270円。
10円の違いなら、品質で勝負などいろいろな話がありました。
もちろん適度な競争は必要なのですが、それが度を超すと大変なことになります。
もちろん当事者はそんなことは考えていないでしょう。
「同じ品質なら少しでも安いほうが良いでしょう」と話しています。
確かにそうなのですが、その価格を実現するには機械化が進められ、そこで働いていた人はかなり多くが職を失っているようです。
もちろん回りの普通の店は、生きていけていないでしょう。
みんなのためと言いながら、自分が儲けることしか考えていない。
その人たちが言う「みんな」とは自分にお金を落としてくれる人だけです。
それ以外の人は「みんな」ではないのです。
こういった動きがデフレスパイラルを生み出すのですね。
社会がいくら弱くなっても自分だけは儲ける。
こんなことを許してはならないのですが、法律で決まっていること以外は何をしてもとがめられることはない。
むしろ人生の成功者としてテレビに取り上げられたりします。
私達の周りの住まいも同じことがたくさんあります。
私達は木の住まいを造りましょうと10年以上前から訴えてきました。
それは住む人のためでもあり、日本の山を守るためでもあります。
でも最近はそうではなくなってきました。
口では日本の山を守るためといいながら、自分の事業を伸ばすためしか考えていない人が増えてきました。
日本の山を守ることが目的ではなく、日本の山を何とかする必要があると考えている環境意識の高い人を集めて金儲けをしようという感じです。
伝統構法も同じ事。
私が伝統構法が好きだから、それをやり続けたい。
伝統構法が社会のためになるといいながら、行動はそうでもない。
庶民が手が届かない価格で住まいを造ってもなんとも思っていない。
そんな人が多くいます。
多くの人が住まいに望む性能を何とか確保する必要があると思いますが、伝統構法はそんなことを超越したものだといったような言葉がどんどん出てくる人もいます。
誰のための技術なのか。
その技術を社会のために活かさず、文化財のようなものにして意味があるのか。
職人は自分の仕事に酔いしれることなく、人々の要求に淡々と答えてきたと思いますが、最近は自分の思いが先にたっています。
確かにそういう思いがなければ、こんな社会の中で伝統構法を続けていくことは難しいと思いますが、自分だけがやり続けられれば良いというのではなく、社会にとって伝統構法がなんの意味を持っているのかを考えて欲しいと思います。
良い技術を持ちながら、大きく自分をアピールできない職人さんはたくさんいます。
そんな職人さんが生きていける住まいづくりの仕組みを再構築することが重要ですね。
今の世の中、社会のためにと表現しているものほど怪しい。
掲げている目的を本当に果たそうとしているのか。これを見極める必要があります。
なぜなら、そういった大きな声をあげ、自分のことしか考えていない行動がむしろその目的を壊す行動になっているからです。
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いつもテレビを見ると「?」と思うことがいっぱいです。
一つは日本の教育の問題。
日本の教育が良くないから、アメリカのハーバード大学にいこう。
そのための塾ができたというものでした。
確かに日本の大学は良くない。
日本の最高学府といわれている東京大学でも、卒業したら官僚になって、社会のために働かず、自分の保身のために努力をする。
大学で学ぶということはそんなためではないですね。
社会に出て働くということは、自分が利益を得るためではないのです。
もちろんお金がなければ生活していけませんが、人を押しのけて金儲けし、それで生きていけば良いというのではないのです。
社会というのは共同生活の場。
人のできないことを変わりにし、その対価を頂き生活するというのが正しい道だと思うのです。
でも今では人に勝たなければ自分が生きていけない。
そのために少しでも優秀な大学に進む。
その大学に進むことを商売にする。
とってもおかしな社会です。
日本の大学が良くないから、ハーバード大学に進むのではなく、日本の大学をもう少し改革することを考える必要があります。
そのためには、大学を改革するだけでなく、社会を改革しなければダメですね。
優秀な人間を作り、それを金儲けに使うという仕組みではなく、学問で得た知識を社会のために使い、人はその対価をいただくということを真剣に考えなければなりません。
そうしないと、日本の世の中は一部の金持ちと、多くの貧困者に分かれてしまい、さらに金持ちもいつまでも金持ちでいれない社会になるでしょう。
もう一つ教育の話がありました。
より良い教育を目指すために、中学、高校と全寮制で生活する。そんな学校の話がありました。
そこでその寮の寮長もしている先生が、「6年間一緒に生活していると卒業する時は分かれるのがつらい」と話していました。
その通りだと思いますが、その前に中学、高校と子どもとして本来関わっていかなければならない両親はどう考えているのでしょう。
小学校を出てすぐ全寮制の学校へ入れないとまともな子どもができないのか。
それともそんな学校に入れることが、子どもの幸せだと思っているのでしょうか。
今の社会なら、普通のことをしないで、子供らしく生活ささないで、小さいうちにいろいろ詰め込めば確かにその子はうまく生きていくかもしれません。
でもそれが正しい姿でしょうか。
ハーバード大学に進学して優秀な学問を学ぶことは確かに大切なことでしょう。
でも、普通に生活している人が生活しにくい社会を何とかできなくて意味があるでしょうか。
他にも日本にある中国系の学校に進学させる話もありましたがここではカットします。
もう一点。
東京渋谷の「均一価格の飲み屋」の話。
一生懸命努力して、安い価格でお客さんに食べ物を提供し、他店に勝ち抜く。
相手が280円均一なら、こちらは270円。
10円の違いなら、品質で勝負などいろいろな話がありました。
もちろん適度な競争は必要なのですが、それが度を超すと大変なことになります。
もちろん当事者はそんなことは考えていないでしょう。
「同じ品質なら少しでも安いほうが良いでしょう」と話しています。
確かにそうなのですが、その価格を実現するには機械化が進められ、そこで働いていた人はかなり多くが職を失っているようです。
もちろん回りの普通の店は、生きていけていないでしょう。
みんなのためと言いながら、自分が儲けることしか考えていない。
その人たちが言う「みんな」とは自分にお金を落としてくれる人だけです。
それ以外の人は「みんな」ではないのです。
こういった動きがデフレスパイラルを生み出すのですね。
社会がいくら弱くなっても自分だけは儲ける。
こんなことを許してはならないのですが、法律で決まっていること以外は何をしてもとがめられることはない。
むしろ人生の成功者としてテレビに取り上げられたりします。
私達の周りの住まいも同じことがたくさんあります。
私達は木の住まいを造りましょうと10年以上前から訴えてきました。
それは住む人のためでもあり、日本の山を守るためでもあります。
でも最近はそうではなくなってきました。
口では日本の山を守るためといいながら、自分の事業を伸ばすためしか考えていない人が増えてきました。
日本の山を守ることが目的ではなく、日本の山を何とかする必要があると考えている環境意識の高い人を集めて金儲けをしようという感じです。
伝統構法も同じ事。
私が伝統構法が好きだから、それをやり続けたい。
伝統構法が社会のためになるといいながら、行動はそうでもない。
庶民が手が届かない価格で住まいを造ってもなんとも思っていない。
そんな人が多くいます。
多くの人が住まいに望む性能を何とか確保する必要があると思いますが、伝統構法はそんなことを超越したものだといったような言葉がどんどん出てくる人もいます。
誰のための技術なのか。
その技術を社会のために活かさず、文化財のようなものにして意味があるのか。
職人は自分の仕事に酔いしれることなく、人々の要求に淡々と答えてきたと思いますが、最近は自分の思いが先にたっています。
確かにそういう思いがなければ、こんな社会の中で伝統構法を続けていくことは難しいと思いますが、自分だけがやり続けられれば良いというのではなく、社会にとって伝統構法がなんの意味を持っているのかを考えて欲しいと思います。
良い技術を持ちながら、大きく自分をアピールできない職人さんはたくさんいます。
そんな職人さんが生きていける住まいづくりの仕組みを再構築することが重要ですね。
今の世の中、社会のためにと表現しているものほど怪しい。
掲げている目的を本当に果たそうとしているのか。これを見極める必要があります。
なぜなら、そういった大きな声をあげ、自分のことしか考えていない行動がむしろその目的を壊す行動になっているからです。
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Posted by 三和総合設計 at 08:28│Comments(0)
│変だぞ!今の住まいづくり(正)